<五代目>



 ■五代目古今亭今輔 (明治31年6月12日〜昭和51年12月10日)
  群馬県佐波郡境町諏訪町生まれ。本名・斉藤(後鈴木)五郎。大正3年、
 初代三遊亭圓右門下となり右京。後、同門の三遊亭右女助(後、四代目古今
 亭今輔)門人となり、大正6年、桃助で二つ目。同8年、柳亭市馬(味波庄太
 郎)の紹介で、三代目柳家小さん門下となり小山三。同12年、同名で真打に
 昇進。同14年、落語革新派を結成。解散後、桂小文治門下に移り、昭和6年
 三代目桂米丸を襲名。同16年五代目古今亭今輔を継ぐ。同39年、大衆芸能
 賞受賞。同48年、 NHK放送文化賞受賞。同49年、芸術協会二代目の会長に
 就任。昭和51年12月10日没。享年79歳。
 

   円朝直系の芸風            都家 歌六
  本名・鈴木五郎(初め斉藤)。明治31年6月12日、群馬県佐波郡境町諏
 訪町で藤本屋商家の息子として生まれた。15歳の時家出をして上京。大正3
 年名人初代三遊亭圓右門下となり右京を名乗った。時に16歳であった。
  しかし師匠の実子小圓右のわがままと、それを甘やかしていた圓右親子に
 愛想が尽き、その門下であり後に四代目今輔となった関西出身の三遊亭右女
 助門下に転じて大正6年桃助で二つ目。更に大正8年3月、これも名人と言わ
 れた三代目小さん門下となって小山三を名乗る。大正12年3月同名のまま真
 打となったが大正14年9月、何か思い切ったことがやってみたいと、三歳年
 長で後に彦六となった32歳の若き真打圓楽と、まだ創立後間もない落語協会
 に反旗を翻し落語革新派なる一派を創立。

  しかし、この別派も僅か五ヶ月足らずでオジャン。大正14年11月小山三
 と改名。その後これも同じく関西より東京に住み着いた二代目桂小文治の内
 輪となり、昭和6年12月師小文治の名前を貰って三代目桂米丸。更に昭和16
 年4月旧師の名跡を継いで、五代目今輔となった。
  そして名実共に押しも押されぬ落語界の大看板となってからは、新作派〜
 特に十八番の「お婆さん」を一連とする〜の巨匠として知られたが、圓右・
 小さん、門下の修業時代、つまり小山三までの若い時代には徹底した古典派
 であったのだ。

  若き日の故彦六と共に、大圓朝一門の高弟であった一朝の圓楽時分に、彼
 より芝居噺・怪談噺・人情噺を充分に会得し、そして継承した。故に晩年に
 なってからも、盛んに演じていた古典物の「ねぎまの殿様」「もう半分」「
 江島屋怪談」「藁人形」「塩原多助」等はこの当時のものであり、圓朝直系
 の芸風を実直に伝えた貴重な存在であった。
  しかし、どうしてそれが新作に転じたのか、と言うことに就いては、ここ
 に二つの隠された理由があったのだ。一つは彼の所属していた団体が芸術協
 会であったことによる。この協会は昭和5年、春風亭柳橋・柳家金語楼をそれ
 ぞれ、会長・副会長として発足したもので本格派の渋い芸風の多い落語協会
 に対抗するため、派手で陽気な芸風を会全体として売り物にしていた。これ
 はその当時の時代の要求でもあったので、彼も必然的にその影響を受けたの
 だ。それともう一つは、お国訛りのハンデがあった。今でこそ地方出身の落
 語家といっても当たり前と言っていいくらい一向に珍しくも何ともない時代
 となったが、当時の噺家は殆どが江戸っ子であり、先例された江戸弁が基盤
 となっている古典落語を演ずるには、生まれ故郷の上州訛りが永年悩みの種
 でもあった訳だ。

  そこで米丸時代より、徐々に古典から新作へときりかえていった訳で、仮
 に小山三当時の今輔を知る人が居るとしたら、それは全く信じられない位の
 大イメージ・チェンジの断行であったと感じるに違いない。
  特にお婆さんをテーマとした一連の新作「老稚園」「くず湯」「青空ばあ
 さん」それに「峠の茶屋」「ラーメン屋」等は傑作として世に残されている。
 永年の<芸道一筋>のひたむきな人生に、曲がったことに対しては、僅かな
 妥協も許せない頑固一徹な一面と、その反面温かく思いやりのある人情家と
 しての気質、その二面性が自然に融合して彼独自の芸風を生み出し、他の追
 従を許さない今輔落語という形を完成させたのである。

  こうした永年の努力が報われて、昭和39年に大衆芸能賞、昭和48年3月
 NHK放送文化賞。続いて5月には勲四等瑞宝章受章の栄光に輝いている。
  今輔師匠が昔私にこう言った事がある。
  「自分が若い時分に散々苦労させられた人間は二通りの性格に分かれるも
  のだ。自分が曽て受けた辛い嫌な思いを他人には二度とさせたくないと考
  えるか、それとも自分がこういう思いをしたんだから人にもさせなきゃ損
  だと思うかのどちらかだ」と。
  若し後者に当てはまる人であったとすれば、間違ってもこの言葉は出て来
 ない筈で。

  昭和42年に没した師匠桂小文治の後任として、日本芸術協会副会長に就任。
 更に49年には初代会長として44年間その座にあった、春風亭柳橋の後を受け
 て二代目会長となった。
  しかしその会長の座も、僅か二年にして不幸病魔に冒されるところとなり、
 昭和51年12月10日、胃潰瘍のため79歳でこの世を去った。
  今輔亡き後は、彼の総領弟子である現四代目桂米丸が恩師の遺志を受け継い
 で、落語芸術協会の三代目会長に就任。副会長春風亭柳昇と共に現在に至って
 いる。