狂歌とは<戯(ざ)れ歌>といわれて
江戸人のユーモアと反骨、洒落と滑稽、機知と頓知の発信源であった。
そして、狂歌を語るときどうしても避けて通れないのが蜀山人(しょくさんじん)こと
「大田南畝」である。

「南畝」が生まれたのは寛延二年、江戸牛込中御徒町で
江戸文壇の大御所で最高の文化人ともてはやされた一方、
地道な役人生活を全うしたユニークな存在であった。
そして、「南畝」の<笑い>にこの経歴が無関係ではなさそうであるのと同時に
今日氾濫している<笑い>に対して、何らかの警鐘を発しているような気がわしゃしちょる。

この「大田南畝」・蜀山人とその狂歌にまつわる話を中心に、
<戯(ざ)れ歌>を楽しもうじゃないか!

「大田南畝」が活躍していた時代の江戸期の文芸について目を転じて見ます。
この期の文芸、特に狂歌、戯文などにはパロディーの占める割合が非常に多く広いことを感じます。

次によく知られている歌を紹介しましょう。


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夕されば 野辺の秋風 身にしみて
うずら鳴くなり 深草の里

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これは和歌の神様ともいわれ、藤原定家の父親である藤原俊成の有名な歌です。
なんともの寂しくなる歌ではありませんか。
夕方が過ぎ、うずらの鳴き声を聞く頃いっそう秋風が身にしみてくる
といったような意味なんでしょうか。

これを、「大田南畝」先生はパロっちゃいました。

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ひとつとり ふたつとりては 焼いて食う
鶉なくなる 深草の里

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「南畝」先生のほうは、うずらを一つ二つと焼き鳥にして食べてしまい
だんだん無くなっちゃたという意味でしょう。
いかにも「南畝」先生の面目躍如といったところです。

この狂歌の兄貴分ともいうべき和歌と今の時代とをやっと百人一首がその間を取り持っているようです。
和歌というと、うろ覚えながら思い出すのは百人一首のものになってしまいます。

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ももしきや 古き軒端の しのぶにも
なおあまりある 昔なりけり

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これをふざけたパロディー和歌にしてみます。

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ももしきや 古き破れて ケツが出て
今朝の寒さに チンコ縮まる

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これも狂歌のうちに入るのでしょうか?

安永九年(1780)というと、天明という年号に改まる前年のことになります。
この年、出版屋の蔦屋重三郎のところから『虚言八百万八伝』(ウソハッピャクマンバチデン)
という黄表紙が出版されました。

本の内容は、嘘ばっかりついているふざけた男のことを
書いたものですが、
その序文を「大田南畝」が書いています。

「大田南畝」を取り巻く狂歌・戯作者たちのペンネームを
並べて見るだけでも退屈しません。
「大田南畝」、唐衣橘洲(1743〜1802)と並んで狂歌の三大家といわれるもう一人の
朱楽菅江<あけらかんこう>(1738〜1802)の芸名は「あっけらかん」からきているし
ご飯をたくさん食べるので、大飯食人なんてとてもふざけたペンネームの人もいました。

ところである日のこと、「南畝」の名声が高いにを知った
御三卿のうち、田安候がお屋敷に彼を招きました。
九段上からの景色の見事なのが田安候の自慢でした。

そこで田安候、「南畝」に一首求めると
次のように詠みました。

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雪・月・花 きっと受け合い 
申し候う
よって件(九段)の 上の風
     景

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わが日本画壇のエピソード。
画狂人と呼ばれ、引越ばかりしていた葛飾北斎。それに、鬼才・谷文晁。
「大田南畝」もベタほめです。
その証拠に、当時の江戸一流のものを折り込んでいる彼の狂歌に、次のようなものがあります。

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詩は詩仏 画は文晁に 狂歌俺
芸者小満んに 料理八百善

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この鬼才・文晁のところへある時「大田南畝」が訪ねて来ました。
ちょうど文晁も退屈していたらしく黄色いこうほねの花を、赤く塗って遊んでいました。

こうほねとは、黄色い花で水辺や池とか沼に咲く花でよくお茶席なんかに使う花です。

「南畝」はこの時、赤く塗った花とはつゆ知らず赤いこうほねの花は珍しいので
文晁からこれをもらって帰りました。
帰り道、雨が降ってきて塗った色が落ちて洋服を汚してしまったといいます。

ここで、「南畝」は文晁に狂歌を贈りました。

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文晁の 真っ赤な嘘を 知った
なら
こうほねおって もらうまい
ものを

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こんな思いまでしてこうほねをもらってくるんじゃなかったのに、と言うのです。
むざむざ衣服を汚すなんてアホなこったい、ってとこでしょうか......。

蜀山人というペンネームは、「南畝」が50代の時
大阪銅座役人として出張中にこの名前を使い出したといわれます。
銅の異名を蜀山居士というらしいので、後の世までこの蜀山人がポピュラーな愛称ととして使われました。

しかしそれ以前は「四方赤良」で、
これは日本橋の酒屋で売り出している味噌
<四方の赤>から自分の筆名にしたそうです。
つまり、いまでいうところの“タイアップ広告”のはしりと言えそうです。

そう言えば、コマーシャル・コピーの元祖といわれる
「土曜の丑の日は鰻を食べよう」というのがありましたが
これは確か蜀山人の作?それとも平賀源内の作?とか言われていますが、
いずれにしてもなかなかなアイデアマンであることには間違いありません。

この「南畝」=四方赤良先生、
毎晩宴会とか、その他いろんな人に招かれ、
話が弾んでついつい帰りは夜更けになってしまいます。
こんな時、いちばん可哀相なのは奉公人の下男下女たち。

ある晩のこと、赤良先生すっかり遅くまで話し込んでしまい
さて帰ろうとしてフラフラと立ち上がって自分の刀の下げ緒のところまできてみると
短冊が結び付けてあってなにやら狂歌らしきものが書いてありました。

赤良先生、おやっ、と思いながら読んでみると
誰が詠んだかうまく四方と赤良を折り込んであるではありませんか。

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いつ来ても 夜ふけて四方の 長ばなし
赤良さまにも 申されもせず

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なかなか洒落た歌ではありませんか。
どうぞ、訪問先ではあまり遅くなりませんようにくれぐれもご注意を

「南畝」の知人の家のことです。ある年の元旦の朝のことでした。
掃除に使った汚れた雑巾を女中が床の間に置き忘れ主人に叱られていました。

そこに、年始に訪れた「南畝」が、
狂歌で助け舟を出しました。

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雑巾も 当て字で書けば 蔵と金
あちら拭く拭く(福々)こちらふくふく

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明治期に来日したドイツの学者・フローレンツが狂歌を「ことばの手品」といいましたが
この狂歌もそうしてみればことばにこだわって作った実に楽しく、可笑しく
また洒落た歌じゃないでしょうか。

お後がよろしいようで!
そんじゃ、この続きは<第6回>ということで
お楽しみにじゃ


●参考書籍:三一書房・春風亭栄枝著[蜀山人狂歌ばなし]